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タテラッツィ

  • author: タテラッツィ
  • 観たもの触れたもの、マンドリン音楽活動などについて、書いていきます。

    【告知】
    マンドリンオーケストラ“未完成』第11回演奏会
    2011年2月27日(日)浜離宮朝日ホール音楽ホール
    13時30分開場、14時開演
    シューベルト「未完成」、クルト・ヴァイル「小さな三文音楽」ほか。
    入場無料です。

    リベルテマンドリンアンサンブル2枚目のCD発売中!
    マンドリンオーケストラ編曲の最高峰と、新たな世界を切り拓いた委嘱作品を収録。

    指揮:中川賢一(Ken'ichi Nakagawa)
    マンドリン独奏:望月豪(Go Mochizuki)
    演奏:リベルテ マンドリン アンサンブル
       リベルテ マンドリン オーケストラ

    ご購入・お問い合わせはduende-juergaあっとまーくezweb.ne.jpまで!
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    超緊急緊迫「2ゲーム差」ですが違う話題
    注)昨晩の更新時、終わりの方で眠くて眠くて、文章が途中で切れてたり、脈絡もなく話が飛んだり(それはいつも?)、とんでもないことが起こっていたので、修正しました。ご了承くださいm(_ _)m

    表題は無視してください(>わからない方)
    本当はものすごく興奮していますが、こちらはウン十万人の方々がブログ化しているであろうこと&関東でこの件で盛り上がっている人は非常に少ないであろうこと(視聴率は間違いなく「西高東低」でしょう)を勘案しまして、本日この話題はパスします。


    【ただ今のBGM】
    「おお、春よ」(ルッツァスコ)

    「イタリア・ルネサンス歌曲集」より

    ピケット指揮ニュー・ロンドン・コンソート
    キャサリン・ボット(ソプラノ)




    《デッカ・中世&ルネサンス文庫》の1枚。イタリア・バロック初期の、愛を歌った歌を中心に収録。非常に高度な技巧を要求する装飾技法に満ちた音楽を、ボットは驚異的なテクニックで歌っている。

    突然ですが、自分は「ART」の日本語訳の中で「美術」ってのは、誤訳なのではないか?と思いますね。
    (「芸術」という訳もよく付いてますが)

    というか、誤訳うんぬんは、とりあえず置いておいたとして、そもそも

    「美術」

    という言葉がとにかくキライ。

    というのも、「アート」とは、人の営みの震央に迫るもの。

    それが「美しい」ものだけで成り立っているわけがないではないですか。

    苦悩、恐れ、不信感、怒り、罪と罰、その他煩悩各種、、、

    そんな「醜い」ものも立派な芸術の構成要素なのではないか?そう思うんです。

    そしてそれは「美術」だけでなく音楽にも言えることなのでしょう。

    だから自分、楽器奏者で、

    「とにかく自分は美しい音を出したいんだ!」

    って言う趣旨の発言に出くわす度に、違和感を感じます。

    曲の中では、

    激しい音・鋭い音・醜い音・汚い音

    そういうものが要求されるケースが多々あります(もちろん柔らかくて甘い音が要求されることもいっぱいありますが)。

    先日自分は、ある知人がソーシャルネットワークサイトに日記で書いていた

    「上手くなることが目標」

    という発言を元に、「楽器VS音楽」ということで考察をしてみたわけですが、やっぱり、奏者で、このうちどちらを大切に考えているかというのは、その人の音楽に対するスタンスに現れるんだと思います(当然、「音」にも現れると思いますが、「音」の場合、意思どおりに楽器を操れるとは限らないという、技巧の問題が別にありますので、「音」よりは、その当事者の発言や態度を見る方がよりダイレクトなんだと思います)。

    それから自分は、以下のような考え方に対しても違和感あります。

    ・「俺は一般的に(「ある曲のある場面」ではなく)トレモロより単打でやる方が好き。だから、“トレモロか?単打か?”で意見が割れたら必ず単打派」

    ・「俺は固い音より柔らかい音で弾く方が好き。だからいつでもどこでも柔らかい音で演奏したい。」


    ↑こういうのは、その人が「自分の楽器をどう鳴らしたいか」、そのポイントから出ている発言だと思うんですね。

    しかしそれは、サッカーで言えば、

    「俺はゴール前でもパスがしたいからシュートしませんよ!」

    っていう某YNGSW氏的考え方に近いんじゃないかな?とも思います。

    チームとしてどう機能させれば勝てるか、それを考えるべきなのに、自分の流儀を先に考えるというのは違うと自分は思うのです。

    じゃあ、これなんかはどうでしょうか。

    ・20人いるアンサンブルメンバーのうち15人が「トレモロでやろう!」って言ったら、そこはトレモロで奏されるべきなのか?

    これもそうとは限らない、と自分は思います。

    音楽的に妥当か適切か、それは多数決などでは決まりません。
    みんなが良いと思うからと言って、それがそれなりの研究努力・考察に裏づけされたものでなければ意味はないですよね。

    自分は、とある楽団で、(マンドリン界では頻出の)「トレモロか単打か」論争、あるいは「クレシェンドするかしないか」なんてことで議論が起きた時に、

    「こういうのは、まあ、“決め”の問題だから」

    という言葉が交わされていたのを聞いて、大いにギモンを持ったことがあります。

    会社の会議なんかと演奏行為が違う最たる点が、こうした所に現れるのかな、とも思いました。

    社会人団体の場合、一般的に見て、サラリーマンで会議慣れしてる人も団員に多く、団の打ち合わせとかそういうのは、自分が学生だった頃のことを考えるとウソみたいに合理的でスムーズに進むんですね。

    しかし、これが「こと」演奏行為の中身にまで及ぶと、そのサラリーマン的有能さが逆効果になることもあるように思います。

    「社内会議的なまとめの仕切りの上手さ」だけでは、「芸術の震央に迫る」ことに至らないことも多々あるわけです。

    もっとも、何でも見通せているような書きぶりのワタクシも、全くもって、これは難しくて難しくて、どうしていいかわからないケースがいっぱいあるんですけどね。
    (むしろここをお読みの方の方が遥かに詳しい事項も多いと思うので、そのことを考え出したら、恥ずかしくて何も書けなくなってしまうのですが)

    ただ、この問題を問題としてすら認識していない方が非常に多いな、という印象は、普段様々な楽団にいて感じることがあります。

    さて、冒頭の【ただ今のBGM】に戻ります。

    「ルネサンス」と言ったら、美術の世界では、今年大流行のダヴィンチ始め、ラファエロやらミケランジェロやらボッティチェリやら、大天才の宝庫なわけです。

    なのに、こと音楽の世界では、何故

    バロック>>>>>>>>>ルネサンス

    みたいな扱いに甘んじているのだろう?

    19世紀以降の演奏家の手法・技法をそのまま適用しても、それなりの音楽になるバロック(今じゃそういうロマン派的バロックは、悪趣味との烙印を押されつつありますが)

    それが通じないルネサンス音楽

    そういう違いがその後の受容のボリュームを決定したのではないか?

    こういう仮説を持って、聴き始めたのが、上記のCD。

    ルネサンスの音楽、音数が少なすぎですね。

    これをロマン派以降の演奏流儀(19世紀にパリ・コンセルヴァトワールから発生し、現在に至るまで幅を利かせる演奏流儀)に基づいて演奏してしまっては、お客は眠るほかなさそうです。

    本当はバロックもそうなんですよね。

    20世紀もしくは21世紀の楽器・演奏法でバロックをやること自体にどだいムリはある。
    いや、もっと問題なのは、「21世紀に人生を送っている人間がバロック音楽をやること自体が、本当はムリ」。

    結局、全ての音楽は、その音楽が作られた時代や地域の空気と密接不可分なものであり、それに触れていない人間は、どんな大天才だろうが、窺い知ることができないものがある、そういうことを厳格に捉えたら、上記の結論になります。

    18世紀以前の演奏家は、おそらくそのことをよく知っていて、自分より古い時代の音楽を引っ張り出して演奏する、なんてことはほとんど行われていなかったんだそうです。

    こんなにも、同時代よりも古い音楽をレパートリー化するようになったのは、明確にある1つの事件が契機となっているそうです。

    フランス革命です。

    この革命のせいで(おかげで)、それまで金と地位、そして教養のあった特権階級だけのものだった筈の音楽が、広く大衆も触れることができるものになったわけです。

    しかし、そのせいで、「知識も教養も何もない」人たちにも音楽を聴かせる必要が出てきたため、「耳なじみ」という要素が重要視されるようになったんですね。

    その結果、かつての

    「演奏会=最新流行音楽の新作が聴ける場」

    から、

    「演奏会=評価または人気の定着した曲を繰り返し聴かせる場」

    への変容が起こり、そして今や

    「同曲異演を聴いて解釈・奏法・熱気の違いを楽しむことこそがクラシック音楽の楽しみだ」

    という考え方が主流でさえあります。

    現代においても、新作委嘱を熱心にやる楽団はあります。

    その委嘱作品にお客さん(あるいは奏者でさえ?)のどれくらいの人が理解あるいは共感を示して聴いているのか、それはケースバイケースで、残念ながら、一般論としては悲観的に見たほうが良いケースの比率が高そうですが・・・。

    ただ、マンドリンの世界は、「こと」この点に関しては、一般的クラシック音楽業界よりも健全であるような気はします(が、その結果、どういう音楽を演奏するか、というのは、また別の話)。

    先に、「21世紀に人生を送っている人間がバロック音楽をやること自体が、本当はムリ」と書きましたが、その考え方を厳格に捉えていきますと、

    ・外国の音楽は演奏すべきでない(日本の音楽だけ演奏すべき)

    ・自分と同時代・同世代の音楽だけ演奏すべき(バロックはおろか自分より30年も先に生まれた人の曲はジェネレーションギャップがあるからダメ)

    ・顔も知らない人が作曲した音楽も演奏すべきではない

    ・マイミ○になっている作曲家の曲だけ演奏すべき(は、さすがに言いすぎ!)

    と突き詰められてしまうかもしれません。

    しかし、情報がこれだけ流布している時代において、音楽の受容者が持つ「好奇心」を満たそうとすれば、上記のような世界観だけで音楽活動が成り立つ筈もなく、結局南極、我々は、

    「21世紀に人生を送っている人間がバロック音楽をやること自体が、本当はムリ」

    ということを頭のどこかに繋ぎ止めつつも、これらの音楽に対して、持ちうる最良の手段で足掻き、接していく必要があるのだと思います。

    また、確かに「音楽的な処理」、つまり、解釈とか楽器とか演奏法とか、そういうことについては、作曲当時のことを体感として知らずに、現代において再現し切れないというのはあると思いますが、曲に込められた抽象的レベルの精神性を我々が感じ取って、それを「21世紀人の感性で」表現することは可能だと思います(リベルテでやる「四季」はこのスタンスですね。本当は私ももう少しバロックの様式を勉強し、少しでも「持ちうる最良の手段で足掻き、接していく必要」があるのでしょうけれど)。







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    音楽全般 | 02:46:33| Trackback(0)| Comments(4)
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