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投稿日:2006-02-10 Fri
入院の前後を含めてここ3週間くらい、なんだかずっとモヤモヤした日々を過ごしておりました。前にも書いたとおり、テンション下降期だったんですね。
それがブログ上でどの程度現れてしまっているかは、皆様のご判断にお任せしますが、自分としては、最近のワタクシのブログは、
「ハラに力入ってない感じの文章」
だと思っております。
でも、昨日の午後くらいから、肉体的にも精神的にもずいぶん久々に快活な感じになってきました。
退院後のボケボケモードが抜けてきたのか、
ステロイドの体内残存分が抜けたのか、
わかりませんけど。
自分はもともと割と楽観的というか、日々のこまごまとしたことにも楽しみを見出して生きていけるタイプだと自己分析していたんですが、そういう本来の調子(?)も久々に戻ってきました。
このところの自分は何事にもまるで心ときめかない無感動動物でしたのでね・・・。
そして今日は久々にコンサート鑑賞!
新日本フィルハーモニー交響楽団
トリフォニー・シリーズ第396回定期演奏会
オネゲル:劇的オラトリオ「火刑台上のジャンヌ・ダルク」★★★☆☆
指揮:クリスティアン・アルミンク
《火刑台上のジャンヌ・ダルク》は、火刑台の柱に縛られている救国の英雄ジャンヌの回想を軸に、民謡、聖歌、ジャズなど、さまざまな語法を取り入れながら、通常の時間の流れとは異なる世界を描き出すことに成功した、オネゲルの代表作である。“祖国への愛”を超え、真の信仰のあり方を提示したクローデルの台本も、傑作の誉れが高い!複数の語り手、ソリスト、コーラス、舞踏団、電子楽器のオンド・マルトノや3本のアルト・サクソフォーンを含む大オーケストラが舞台に登場することもあり、CDでの鑑賞よりも、今回のように、視覚にも強く訴えることが可能なコンサート・オペラ形式でこそ、その真価に触れることができる大作でもある。
いつものことながら、ワタクシの★印5段階評価は「私的満足度評価」。
つまりどういうことかと言うと、完全に自分の公演に対する満足度だけで点数を付けるということ。
自分が感動しなければ、いくら公演の質そのものは高くて、満足できなかった原因が自分の寝不足・勉強不足などによるものだったとしても、点数は低くなります。
今回の点数が3点どまりなのも、まさにこの「寝不足」が原因。
とても面白いことやってるなー、いい公演だなー、とは思ったのですが、いかんせん、眠すぎて・・・。でもチケット代高かったので、意地でも眠りはしませんでしたけど、ただ頬を何十回もつねったりしてました(苦笑)
作曲者のオネゲルはフランス6人組の一人。
グローヴ音楽辞典では、フランス人ではなく「スイス人」とされているそうです。
オネゲルの場合、よく言われるように「ドイツ古典~ロマン派音楽」へのシンパシーが強い作曲家だったこともあり、他のフランス6人組のような先鋭性・革新性は薄い人だとされます。
オネゲルの言葉
「新しい枝は古い幹から成長する。進化とは幹を切ることではない。」
しかし、この「火刑台上のジャンヌ・ダルク」の音楽表現は、チェレスタやオンド・マルトノを使った革新的な響きを併せ持つものであり、決して単なる古典主義・回顧主義者とはいえないところがあります。
またそれがジャンヌの悲劇へと向かう劇的な感情の高ぶりを補完する役割を果たしていることから、この作曲家のロマン的な要素も見えてきます。
劇は舞台上に巨大な十字架とステージが置かれ、その両脇にオーケストラが座って演奏。
「演奏会形式のオペラ」ではありますが、装置の工夫により「舞台性」も十分にあったのではないか、と思いました。
自分で言うのもなんですがワタクシ、かなりの世界史オタクなんです。
でも中世ってのはかなり弱い所。
百年戦争、ジャンヌ・ダルクなんてのは、特に弱い。「三銃士」も読んだことないし。。。
公演プログラムの解説に面白いことが書いてありました。
要旨を紹介しますと、
「ジャンヌ・ダルクはフランス国民をイギリス人から守った救国の主であるかのように言われることがあるが、それは後世の国民国家という概念を持つ人々がとって付けた概念である。当時の欧州にはまだ国民国家という概念そのものがなく、フランスを守るとかそういう発想そのものが的外れ。このオネゲルのジャンヌ・ダルク像はそういう【近代的解釈】とは一線を画し、より史実に近い、宗教的側面からの殉教ということをテーマとしている」
といったような内容でした(ちゃんと読み返さず記憶だけで書いてるので、ニュアンスが弱冠違うかも)。
この作品に限らず、1920年代~30年代って、面白い劇作品の宝庫ですので、もっといろいろ観て聴いていきたいところです。
なお終演後、大学のマンドリンクラブの大大大大先輩で最近はメル友にもならせていただいているkdkrお姉様にたまたま出会いまして(3つくらい隣の席にいらした)、その流れでちょっくらオゴってもらったりしたのでした(^^)
この方も面白い話の引き出しをいっぱい持ってらっしゃる方で、そういう方との対話にはどれだけ時間使っても、「時間がもったいない」とかそういう風には感じません。
【ただ今のBGM】
タプカーラ交響曲 SINFONIA TAPKARA(伊福部昭)
芥川也寸志指揮 新交響楽団
伊福部は芥川の作曲の師であり,オスティナートに執着した最初の日本人である。『ゴジラ』等の映画音楽でも知られるが,収録曲は「純音楽」の代表作3作。78年の近作も含まれている。この独特の骨太なアクの強い音楽に,芥川は共感と愛着を込めた。
作曲家・伊福部昭さんが死去…「ゴジラ」など手掛ける
国内作曲界の大御所で、「ゴジラ」など映画音楽の作曲家としても知られる伊福部昭(いふくべ・あきら)氏が、8日午後10時23分、多臓器不全のため亡くなった。91歳。告別式の日取りと喪主は未定。自宅は東京都世田谷区尾山台2の7の7。
北海道釧路市生まれ。10代前半から独学で作曲を始め、北海道大林学科在学中に作曲した管弦楽作品「日本狂詩曲」が、1935年にパリで開かれた作曲コンクール「チェレプニン賞」で第1席となり、国際的に高く評価された。
46年に東京芸大作曲科講師となり、芥川也寸志、黛敏郎さんらを育てた。また76年から11年間、東京音楽大の学長を務めた。
映画音楽は、47年に谷口千吉監督の「銀嶺の果て」を手始めに、54年、わが国初の本格的な怪獣映画「ゴジラ」を担当。後に“伊福部節”とも呼ばれる同じリズムの繰り返しを効果的に使った野性的で骨太の音楽が、作品を大いに盛り上げた。手掛けた映画音楽は300本にも上り、海外にもファンが多かった。
2003年に文化功労者。1月19日から腸閉そくのため、都内の病院に入院していた。
(読売新聞) - 2月9日3時8分更新
以前、どこかのBBSか何かで
「正月にふさわしいクラシックは?」
というお題で意見交換していたのを見た時に、
「そりゃもう伊福部昭に決まってンだろ、ゴルァ」
てな展開になってたんですね(この物言いで、だいたいどこのBBSだか、おわかりですよね^^;)
でも自分は、
「ええーーー?そうかなぁ・・・。」
と、半信半疑というよりはもはや、明確に反論したい気持ちでした。
このイメージ、きっと伊福部の音楽の響きが「雅楽」とかに近いという印象に基づいているんでしょうけど、自分の感じだと、そう解するにはあまりにも「不純物」が多すぎるんです、彼の音楽には。
日本の現代音楽に造詣の深い音楽評論家の片山杜秀氏いわく、伊福部昭の音楽とは、
「日本、アイヌ、その他の北方諸民族、更にスラヴ等の要素が独特に結合した、きわめてハイブリッドな、一種ユーラシア的な広がりを有するもの」
なのだそうです。
そしてこの言葉を自分は、伊福部を表す最良の表現だと思っております。
というわけで、伊福部の音楽は決してしばし語られるようなファナティックな意味での「民族的」音楽ではないと思うんですね。
例えば今聴いているこの曲、「タプカーラ」とはアイヌ語で「立って踊る」の意。
北海道の釧路出身の彼は、少年時代からアイヌの風物に日常的に触れていたといいます。
そのため彼の音楽は、アイヌのほか、シベリウスやストラヴィンスキーなど「寒い国」の音楽の影響がずいぶんと見られます。
伊福部の得意とする「オスティナート」(繰り返しの技法)なんて、シベリウスの特徴そのものですしね。
いや、そんな理屈は抜きに、彼の音の響きには、「北」を感じます。
これは自分も少しだけわかる部分があります。
自分の父は東北(青森)出身なんですが、なんと幼少の頃、アイヌ語を少し話していたと言うんですね。
たしかにうちの父、異様に肌が白いし、顔のホリが深いというか、あまり「大和民族」っぽくない感じ。
実際自分も「タテラッツィ」なんてラテン系なペンネーム(?)使ってますが、実のところは北国の方にシンパシーを感じることが多いです。
最近、ショスタコを聴いてハマってしまったのも、きっとそういうバックボーンが大なり小なり影響しているのではないかと。
というわけで、ワタクシにとって伊福部とは、
「純日本風作曲家」
などではないのです。
洗練とはほど遠い彼の音楽ですが、でも、その土臭さが好きです。
誰だかが、「洗練とは頽廃の裏返しである」みたいなこと言ってましたが、自分はこれはすごく同感。
と言っても自分は「洗練=頽廃」の音楽もそれはそれで大好きです。
ラヴェルなんかは、そういう部分こそが魅力でもあったりしますし。
「ラ・ヴァルス」なんてその最たる例でしょう。
かつてナチスドイツは、ゲルマン民族の伝統から切り離されているような先鋭的な音楽に対して「頽廃音楽」のレッテルを付けて弾圧しました。
これは彼らの蛮行の事実はあるにせよ、いやむしろその当然の帰結として、行き着く所なのだろうという気がするんですね。
「頽廃音楽」とは具体的にはジャズとか無調音楽とかその他もろもろを指すんですが、確かに「無調」とか「12音音楽」、「セリー音楽」なんて類のいわゆる「ゲンダイオンガク」って、どう考えても音楽の中に「カラダの中からほとばしるもの」がない感じがする。
もっと言うと、「踊れない」。
極論すると「踊れない音楽なんて音楽じゃない」という見方もあるわけで、そういう風に見ると、こんなのはアタマでっかちのインテリの傲慢音楽だ!って論理です。ナチスの奴らに言わせれば。
でもって聴衆のほとんども、「無調音楽」なんて内心「どこがええんや、こんなもん」て思ってたもんだから、ナチスに同調しちゃった。
音楽を例に挙げましたが、これと同じことが文化の全分野、社会、政治経済に及んでナチスは民主主義選挙によって合法的に政権を奪取してしまったんですね。
ちなみに完全に話がそれたついでに書きますと、ファスビンダー監督の「ベルリン・アレキサンダー広場」っていうドラマ映画は、ナチスがいかにして合法的に政権を奪取したかについて、当時の社会の空気感を見事に伝えることで示されている名作です。
いずれにしましても、「洗練=頽廃」路線だろうが「土着的」路線だろうが、
【イイものはイイ!】
というのがどうやら真理なのかな、と思う今日この頃です。

